校歌・校章
- 公開日
- 2026/01/09
- 更新日
- 2026/01/09
学校概要
甚目寺小学校の校歌と校章の歴史は古く、創立当時のものが現在も使われています。
甚目寺町の人口増加に伴い、「住へる人の数○○人」の歌詞が変化してきました。
現在の歌詞は、「四万」ですが、当初の詞は、「5千」で歌われていました。(その後、
「八千」「九千」「一万」「二万」「三万」四万」と変化)
作詞は、愛知県第三中学校(現在愛知県立津島高等学校)の教師山田時治先生で
す。作曲者は、記録が残っていません。
甚目寺町の人口増加に伴い、「住へる人の数○○人」の歌詞が変化してきました。
現在の歌詞は、「四万」ですが、当初の詞は、「5千」で歌われていました。(その後、
「八千」「九千」「一万」「二万」「三万」四万」と変化)
作詞は、愛知県第三中学校(現在愛知県立津島高等学校)の教師山田時治先生で
す。作曲者は、記録が残っていません。
山田時治作詞
1 濃尾平野に地を占めて | 現在歌われている歌詞 1 濃尾平野に地を占めて 住まえる人の数四万 名は世に高き塔のどう ほまれはひびくしょうろうの 推古の御代の昔より 栄はしるき我が里ぞ 2 そよぐ稲葉に土地開け 上がる煙に家は富み 人の心はおだやかに 一家の如く親しめり 衣食はたりて礼を知る 我が里たれか愛せざる |
発音は変わりませんが、
難しい 文字がやさしくなっています。
著る⇒しる、烟⇒煙、
郷⇒我が里、等
[校章制定の由来]
1887年(明治20)11月、時の文部大臣森有礼が愛知県の学事を巡視
する途中、前ケ須駅 (現海部郡弥富町)において出迎えた高等小学校
児童の隊列運動と唱歌を聞かれ、感動のあまり手持ちの20金を当時の
海西郡の郡長横田氏に下された。これを記念して男子には森の字の入
った帽章を女子には賞碑を作って身につけさせた。
これ以降、この地方(旧海東郡、旧海郡西郡 現海部郡)のほとんどの
1887年(明治20)11月、時の文部大臣森有礼が愛知県の学事を巡視
する途中、前ケ須駅 (現海部郡弥富町)において出迎えた高等小学校
児童の隊列運動と唱歌を聞かれ、感動のあまり手持ちの20金を当時の
海西郡の郡長横田氏に下された。これを記念して男子には森の字の入
った帽章を女子には賞碑を作って身につけさせた。
これ以降、この地方(旧海東郡、旧海郡西郡 現海部郡)のほとんどの
学校で、校章や校旗には「森」の字がデザインされたものを用いていたよ
うである。
(海東郡海西郡小学校微章之記より)
(海東郡海西郡小学校微章之記より)